自分が良けりゃ絶対にそれが正解~グリーンゼリーは何色であるべきか?~

こんばんは!佐伯です( ´ ▽ ` )ノ

 

昨日、マクロビオティックの料理教室に行ってきました。

で、課題料理としてグリーンゼリーを作ったのですが、

僕の班はあんまりキレイに色がでなかったんですね。

(写真の右上にある抹茶みたいなのがグリーンゼリーです。)

 

料理を作り終えたら皆各々写真を撮るのですが、

なかにはわざわざ他の班の色鮮やかなグリーンゼリーに取り替えて写真を撮影する方も居て

「これって見方によっちゃあ選民思考だよな~」と思いました。

 

今回はこのことについて記事にしたいと思います。

 

たかがグリーンゼリーの色合いが選民思考??

 

「いやいや、グリーンゼリーの色合い1つで選民思考とかバカかよw」

と思われた方もいると思います。

 

確かに、これだけ聞くとおかしなことだと自分でも思いますw

でもまぁ、記事を読んでいただければ全くのトンデモ理論でないことはわかっていただけると思っております。

 

僕は、決して教祖様になりたいわけではありません。

何か僕の記事が、あなたの考えるきっかけになり、そしてほんの少しだけでも

あなたにとって良い方向に動いていただければ、僕としてはこれ以上ない幸せなのです。

 

というわけで、始めさせていただきますw

 

まず僕が、言いたいのは「生物みんな平等」ということです。

 

普段は、人間皆平等だとしきりに言っていますが、

でも、今回はもう少しそれを大きくして「生物みんな平等」とします。

 

さて、生物とは何なのか?

 

それは、動物や植物はもちろんそうですが、

人間が時間と手間をかけて創り出したものすべてを「生物」と定義します。

具体的に言えば、工芸品とか芸術品とか、今回の料理ももちろんそうです。

 

“すべての生物は、人間と同等で平等である”

 

この事に留意して頂ければ、今回の話を読んでいただけると嬉しいでございます。

 

オーガニックが絶対正義で、添加物は絶対悪なのか?

 

特にだと思いますが、マクロビオティックの料理教室でしきりに言われるのは

「この食材には添加物が多量に含まれているからダメ」とか

「この塩は、天然製法じゃないから使わないほうが良い」とかです。

 

僕は、こういった

自分の正しさを証明するために他人を否定する姿勢には賛同できません。

※もちろん文脈があります。特に先生(教室側)からは一方的な否定の意を感じません。

 

とは言いつつも、

僕は普段の食事や調味料はほぼマクロビオティックに準じています。

 

でも、一概に、添加物が悪い、この製法は嘘っぱちだと言ってしまうのは

あまりに一方的すぎますし、

あちらさんの言い分も聞いてやってはいかがでしょうか?と言いたくなるのです。

 

だって生物は皆、平等だからです。

 

だから、相手さんの言い分を聞くこと無く「添加物は悪だ!」と決めつけてしまうのは

“平等という土俵”に上がろうとすらしていないように感じるのです。

 

僕が食品を選ぶ基準

 

僕が食品を選ぶ基準は、

食品同士を比べたときの、添加物の多さとかそんなんじゃなくて

そこにいかに愛情(美しさ)の存在感じるかです。

愛情(美しさ)とは、人の手間です。機械的な工程の多さではありません。

 

添加物を摂らないのは、愛情を感じないからです。

それは、いかにも機械的で、食べるためだけに作られたような無機質な感じがするからです。

 

そして、大体がその食品本来の持ち味を誤魔化す形で使われています。

それは色だったり、形だったり、腐るまでの期間だったりします。

 

外国の言葉で、You are What you eat.という言葉があります。

“あなたは何を食べたかで構成されている”という意味です。

 

確かに、これは一理あるな~。と思っています。

食べるというのは、食物はもちろん、経験もそうだと思います。

色々と誤魔化された食べ物ばかり食べていると、「誤魔化す人間」になる気がしますし、

人の悪口や不満ばかり言っている集団にいると、自分もそうなってしまいます。

 

そして人の手間(=愛情)を込めて作られた食品を食べていると

「愛情深い人間」になれる、そんな気がするからです。

 

愛情を感じるのであれば、外見はそこまで重視しません。

 

例えば「曲がりきゅうり」であれば、それはそれできゅうりで個性を感じます。

他と比べて小さなタマネギは良くセール価格で売られていることがありますが、これも同じです。

 

「小さいほど愛情がぎっしり詰まっている。だから私は小さな野菜を選ぶ」

 

マクロビオティックの料理教室の先生がおっしゃったこの言葉は僕の中に強く残っています。

 

実のところわかりませんが、僕はこの考え方に共感を覚え、

ワゴンに入った野菜であってもあえて小さな野菜を選ぶようにしています。

一人暮らしなのでそっちのほうが一食分で丸々使えて便利というのもあります。

 

オーガニックのためのオーガニック食品

 

添加物不使用のオーガニック食品であっても、

オーガニックのためのオーガニック食品はあまり好きではありません。

その理由はやはり愛情が感じられないからです。

 

オーガニックであることが目的になってしまっては、

それは添加物が多量に使われた工業食品と同質だと感じてしまうのです。

 

JASなどの規格に準じることは重要ですが、

JASのためのオーガニックになってしまっては本末転倒だと思います。

 

どこのお味噌か忘れてしまいましたが、

「お味噌を作ろうと思ったら、原料は自然と大豆と塩と麹だけになる。

そんなこと、わざわざアピールすることではない」

みたいなことを書いていました。

 

この言葉にとても感銘を受けました。

 

要は、オーガニックが良い悪いの二元論ではなく、

自分が良いと思うものにどれだけ正直になり、そして覚悟を持てるか。

 

自分の求めているものを追っていたら自然とオーガニックになった。

この過程を踏むことがポイントだと思います。

 

 

それを「オーガニックが良いんだ!」と、あえて盲目的になり、

他の生物の意見を聞くこと無く、オーガニックに傾倒してしまうのは

何やら自分が得た「答え」らしきものの正しさを証明するために

他を否定する…やはりこれも選民思考のような感じを受けてしまいます。

 

別に添加物使ってもいいじゃん

 

反対に、生産者の立場に立ってもそうです。

自分が求めるものを突き詰めた結果、添加物の使用が不可欠だったのであれば

世間に迎合すること無く堂々と添加物を使えばいいのです。

 

添加物は諸悪の根源みたいに言われていますが、

添加物によって得た経験も悪いものばかりではありません。

 

例えば、駄菓子は添加物の固まりですが、

でも僕たちの子供時代って駄菓子抜きには語れないじゃないですか。

 

この事実に敬意を表する事なく、時代に流され周りに流され

「添加物は悪だ!」みたいに言ってしまうのはあまりに無慈悲というか、

取り返しのつかない過去を変えようとしているようで、

わざわざ自分を窮地に追いやっているような感じがします。

 

添加物さんからしても「そんな昔のこと言われましても…」って感じですし

そもそも強制的に食べさせられていたわけではなく、

自分で選択して食べていたわけじゃないですか。

 

もちろん、偽装という点もあるかもしれませんが、

子供とは言え自分の無知が招いた責任も全く無いとは言えませんし、

それを100%添加物の責任と決めつけるのは、

自分は悪くないと自分のことを棚に上げているように感じます。

 

「偽装が悪い!ウソつくな!」ではなく、

「会社という組織であっても平気で嘘をつくんだな。今後は気をつけて自分で確認しよう。」と

過去を反省し、未来に繋げた方がよほど建設的ではありませんか?

 

そして、駄菓子とともに育った素晴らしい過去をわざわざ悲観する必要もないと思うのです。

「あの時は楽しかったなぁー!」でいいじゃないですか(^_^)

 

そこに正直さと覚悟があるならば、

添加物を使っても、胸を張って自分の覚悟を伝えればきっと共感してくれる人は居ます。

そして、「オーガニックが絶対善なのか?」という社会に疑問を投げかけるという意志が見えれば少なくとも僕は共感します。

食べる食べないは別として、応援したいという気持ちになります。

 

10年後は添加物が正義かもよ?

 

ここ最近、やたらオーガニック、オーガニック言われるようになったように、

10年後は、添加物が賞賛される時代が来る可能性もあるのです。

 

もちろん未来は予測できませんので、あくまで予測の範疇でしかありません。

ただ何らかの変化は確実にあるわけです。

で、その都度、時代に合わせて変化していては、

大規模設備を要する事業にとっては大ダメージだと思いませんか?

 

そして何より、予測できない時代や環境にその都度、合わせていては

心が疲弊していってしまうのです。

「俺は何のために生きてるんだ?」って自分の存在価値を問うハメになります。

 

「環境の変化に対応できるのが人間の素晴らしい所」だという意見もあります。

これについては全面的に同意します。

 

ただ同意は僕の意見であって、これを絶対善としてはいけないと思います。

まず前提条件として「あなたは環境の変化に対応したいか?」という問いを自分に投げかける必要があります。

 

心からイエスなら、ガンガン変わっていけばいいし、

心からノーなら、自分を貫き通せばいいのです。

 

ここで誤解してはいけないのは、

イエスであっても、決して「周りに迎合してコロコロ対応する」という事ではないのです。

「時代や環境の変化に対応して生き抜く」という覚悟を自分の中で貫き通しているのです。

 

だから、イエスであっても、ノーであっても覚悟は必要です。

 

自分が良いと思ったらそれが絶対に自分にとって正解である。

 

これこそがこの記事でお伝えしたいポイントです。

これを貫き通す覚悟が、今の生き辛い世の中を幸せに生きるための1つの考え方になり得ると思うのです。

 

グリーンゼリーが、イエローでもあなたが良ければそれでいいじゃない

 

さて、この記事のまとめに入ると共に最初のグリーンゼリーの話に戻ります。

 

  • グリーンゼリーは何色であるべきか?

 

僕はこの問いに対して、「別に何色でもいい」と答えます。

グリーンゼリーだからってグリーンである必要はないと思いますし

イエローであっても別にグリーンゼリーと呼びたきゃそう呼べばいいと思います。

 

「グリーンだからグリーンであるべきでしょ!」

っていう、押し付けがましさこそが、生き辛さを生む原因かと思います。

 

「子供だから」

「社会人なら」

「普通は」

「常識に考えて」

「これが決まりだから」

 

はっきり言ってこんなもんクソ食らえです。

 

あなたにとっての正解を決められるのはあなただけです。

それをラクだからと言って常識とかルールに逃げて、自ら幸せを放棄しないで欲しいのです。

 

加えて僕の意見を言うのであれば、そこに愛情が感じられれば何色でもオッケーなのです。

別に色がキレイにでようが、でまいが、

愛情を込めて作ったんだからむしろ、色が出なかったことが愛おしいとすら思います。

 

だから、僕からしたら

他の班のキレイな色したグリーンゼリーと取り替えるというのは、

「あんたのとこの子どものほうがかわいいし、取り替えようよ」みたいな

こんなとんでもない事態にもなりかねないと思います。

 

流石に大げさかと思うかもしれませんが、結構マジですよ。

だって「生物みんな平等」だからです。

僕からすればゼリーだって子どもだって、愛情がこもっているのであれば1つの平等な生物なのです。

 

その生物が持つストーリーを理解しようと努めること無く、

ただ単純に外見などの情報で判断してしまう事。

これって立派な選民思考ではあーりませんか?

 

ただし!僕にも一つだけ確認すべきだったことがあります。

それはゼリーを取り替えた方(以下、Aさん)がどういう思いを持って

「グリーンゼリーを他の班のものとして取り替えたか」です。

 

そこでAさんが「誰がなんと言おうと私は色鮮やかな方が好きなの!」と答えれば

僕にそれを咎める権利は一切ありません。

ただ、その思いを突き通し幸せになってくださいと願うだけです。

 

ただそこで、「なんとなく色鮮やかな方が良いと思った」と言われれば

僕としては、できればこのブログを見つけて読んで欲しいな、とこりゃまた願う限りです。

 

良い悪いの二元論ではなく、

自分が良いと思うものにどれだけ正直になり、そして覚悟を持てるか。

 

そして、「生物みんな平等」という立場に立って

決して選民思考になることなく、お互いの「良い」を理解しようと努め、

少しでも認め合うことができれば社会はもっと幸せになると、僕は信じています。

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